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興行主 A.ストローク 年譜

 

 

1875年

2月28日(ユリウス暦)生。

ラトヴィア、ダウガフピルス市(当時の地名はデュナブルクDünaburg、のちのドヴィンスクDvinsk)郊外の小さなユダヤ人集落に生まれた。

写真1 ラトヴィア、Daugavpils ダウガフピルス郊外の生家跡地

(リガより230㎞南東に位置する)(2017年撮影)

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退役軍人の父は職業音楽家であり、8人の才能豊かなこどもに恵まれた。長兄がアウセイで、弟二人はペテルブルク音楽院に学び、末弟、オスカー・ストローク(OscarあるいはOskar Strok)はピアニスト、後にタンゴの人気作曲家となり、もう一人の弟、レオ・ストロコフ(Leo Strokoff)はプロのヴァイオリニストとして米国で活躍。

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写真2 弟、オスカー・ストロークの墓(リガ、2017年撮影)
写真3 弟、オスカー・ストロークの旧居(リガ、2017年撮影)

1880年代

ペテルブルクでオーケストラ、打楽器奏者として活動、この頃、ジンバリストと出会う

 

1913年頃

政治的不安定さを増す故国を捨て、妻とともにシベリア鉄道で極東に向かいウラジオストクに滞在する。やがて上海に落ち着きパブリック・バンド(のちの工部局オーケストラ、租界の税金で運営される公的な楽団)に職を得た。しかしほどなく退団

1918年  「コンサート・マネージャー」として興行活動を開始した 

 

1919年  大ロシア歌劇団ツアー開始

 

1920年代 上海を拠点にエルマン、ハイフェッツ、ティボー、セゴビアなど世界的名演奏家のアジアツアーを実施

大阪 1923年12月8日撮影

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写真4 ジンバリストとともに大阪にて(1924年12月8日撮影、大阪音楽大学所蔵)

1928年  弟、オスカー・ストロークのタンゴ《黒い瞳》が大ヒットとなる

 

1929年  長女ゲッタが結婚

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画像1 ゲッタの結婚を報じる新聞記事(1929年6月2日 China Press​)

1930年代

ルービンシュタイン、シャリャーピンらのツアーを実施、上海と日本を往復する

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画像2 インプレサリオ、ストロークの紹介記事(1931年11月4日 China Press​)

画像3 ストロークとヒラリー・ネピア シンガポールへの船上で 1941年1月26日(ネピアの娘、Fiona Dunlop所蔵写真)

1937年 ストロークのインタビュー記事より。「私は日本に国立のオペラ劇場を作ろうと思う」(1937年6月23日 ノース・チャイナ・ヘラルド)

 「私は日本に国立のオペラ劇場を作ろうと思う。そして英国の最高のオペラを極東に招くつもりだ。」とインプレサリオ(興行主)、ストロークはノース・チャイナ・ヘラルド紙のインタビュー(6月19日)に対して述べた。ストロークは東京朝日新聞と大阪朝日新聞という二紙と特別な関係を持っており、7月15日に米国と英国に旅立つ際にこのような二つの渡航目的を述べた。(North China Herald 1937年6月23日)

1937年8月

第二次上海事変

 

1941年12月8日

真珠湾攻撃 太平洋戦争勃発

 

1945年8月15日

日本敗戦、租界消滅

 

1945年

ストローク、NYに移住

画像 (メニューヒンとともに)

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写真5 リンカーン・センターにほど近いオフィスが

入っていたビル(緑色のビル)

画像4 ストロークのニューヨーク・オフィスの広告(1951年頃)

1951年 メニューヒンの日本初来日ツアー

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写真6 1951年、初来日したメニューヒンとともに(撮影/小原敬司・提供/昭和音楽大学)

1954年

デュ・ポール黒人合唱団初来日ツアー

 

1955年

シンフォニー・オブ・ジ・エアー(トスカニーニのNBC交響楽団の後継オーケストラ)の初来日、アジアツアー

 

1956年7月2日

ストロークは投宿中の帝国ホテルで死去。7月17日に日比谷公会堂で音楽葬が執り行われた。横浜外国人墓地に埋葬される。

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写真7 1956年7月17日 ストローク音楽葬(撮影/小原敬司・提供/昭和音楽大学)

彼の死後、朝日新聞社主の村山未知はストロークの提言に従い、大阪国際フェスティバルを開催。1958年に始まった国際フェスティバルは2008年には

50周年を迎え、今日まで継続されている。

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